東京生まれ。宗教家、思想家。父は高崎藩士。札幌農学校卒業後、農商務省等を経て米国へ留学。帰国後の明治23年(1890)第一高等中学校嘱託教員となる。24年(1891)教育勅語奉戴式で拝礼を拒んだ行為が不敬事件として非難され退職。以後著述を中心に活動した。33年(1900)「聖書之研究」を創刊し、聖書研究を柱に既存の教派によらない無教会主義を唱える。日露戦争時には非戦論を主張した。主な著作は『日本及び日本人』(1894 後の『代表的日本人』)、『余は如何にして基督信徒となりし乎』(1895)等。
「近代日本人の肖像」より
思想家。キリスト教の神髄は聖書の中にこそあるとして、個人による聖書研究を重視し、教会や典礼といった制度、形式を退ける無教会主義の創始者。高崎藩士の長男として江戸に生まれ、有馬英学校などを経て、札幌農学校に二期生として入学。ここで、「少年よ大志を抱け」で知られるウィリアム・クラークに感化を受けて、キリスト教徒となる。卒業後はいったん、官吏となって水産研究に当たったが、後に辞職して渡米。米国アマースト大学留学中に、同校の総長を務めていたジュリアス・H・シーリーの強い影響を受けて回心を経験する。『余は如何にして基督教徒となりし乎』は、この回心に至るまでの自伝。帰国後、教育勅語への敬礼を拒んだことが「不敬事件」とされ、激しい非難を浴びて全国を転々とすることを余儀なくされる。キリスト教に関わる論説の他、幅広い社会評論をものし、足尾鉱毒事件に際しては、銅山経営者、古河市兵衛を糾弾する論陣を張った。Wikipedia「内村鑑三」
「青空文庫」より
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。 福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。 [生涯] 1861年(万延2年)、高崎藩士内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。 三度自己を鑑みるという意味で父宜之が「鑑三」と名付けたと言われる。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。 幼少期より、父から儒学を学ぶ。 1871年(明治4年)の廃藩置県によ...
「Wikipedia」より