岐阜生まれ。文学者。東京大学卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師、のち教授となる。日本最初の近代的文学論『小説真髄』(1885~1886)とその実践となる小説『当世書生気質』(1885~1886)を著し文壇の中心的存在となった。森外との「没理想論争」は有名。のち演劇改良運動(新劇)を弟子島村抱月らとともにはじめ俳優養成にも尽力。一方で教育家として倫理教育にも業績がある。昭和3年(1928)にはシェークスピア全集の訳業を完成させた。
「近代日本人の肖像」より
岐阜県加茂郡太田宿生まれ。父は代官所手代だったが、母は芸術好きの商人の子で、小さい頃から本やお話に親しんだ。名古屋に一家で移住してからは貸本屋や劇場に赴き、芸術への関心を深めていく。入学した愛知英語学校で初めてシェイクスピアに触れ、感銘を受ける。1883(明治16)年東京大学文学部卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師となり、翌年「ジュリアス・シーザー」の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版。また1885(明治18)年「小説神髄」を書き、江戸時代の怪奇風で勧善懲悪式の物語作法を批判し、人間の感情や物事をありのままに描写する小説 novel を提唱する。そしてその理論の実践として「当世書生気質」を発表、1891(明治24)年には「早稲田文学」を創刊した。関連して同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げたこともあった。また演劇にも熱心で、文芸と同じく論文や「桐一葉」などの実践的脚本をものし、1909(明治42)年改組された文芸協会の責任者となってシェイクスピアを上演するなど演劇革新に取り組んだ。1928(昭和3)年には「沙翁全集」全40巻の完訳を果たし、1933(昭和8)年から原語の品位風味を活かした現代語訳を目的とする「新修シェークスピヤ全集」全40巻を刊行した。近代文芸の基礎を作った功績は大きく、また英国の文豪シェイクスピアを日本に紹介したことも評価してしすぎることはない。(大久保ゆう)Wikipedia「坪内逍遥」
「青空文庫」より
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、主に明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。 代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳。 本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。 別号に春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。 俳句も詠んだ。 [生涯] 尾張藩領だった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)の生まれ。 父は尾張藩士で太田代官所の手代をつとめていたが、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻った。 父から漢学書類を読まされた他に、母...
「Wikipedia」より