熊本生まれ。小説家。少年時に同志社に入学、洗礼を受ける。同志社を中退後、明治22年(1889)兄徳富蘇峰の経営する民友社に入る。明治31年(1898)から国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、それに続く「自然と人生」「思出の記」などにより小説家としての地位を確立した。39年(1906)エルサレム巡礼に出、トルストイも訪問する。40年(1907)東京府下千歳村粕谷(現世田谷区)へ転居、半農生活に入る。兄蘇峰とは長らく絶交状態であったが、昭和2年(1927)伊香保で療養中に和解、その翌日に死去した。
「近代日本人の肖像」より
明治、大正期の小説家。本名は健次郎。熊本県水俣の惣庄屋兼代官をつとめる名家に、漢学者の一敬を父、蘇峰(本名、猪一郎)を兄として生まれる。少年期に京都同志社に学び、いったん熊本に戻った時期に受洗。後に同志社に復学したが、新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、上京。兄の経営する出版社・思想結社、民友社に加わる。同社の「国民新聞」「国民之友」などに原稿を寄せ、「不如帰」で一気に文名を得た。日清戦争を契機に、平民主義的な立場から国家主義へと蘇峰が思想的立場を転じていく中で、1903(明治36)年には民友社を去り、自費出版した「黒潮」の巻頭に、兄との決別を告げる「告別の辞」を掲げる。その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験。パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問などを経て半農生活に入り、特異な宗教的な確信へと傾斜していった。Wikipedia「徳富蘆花」
「青空文庫」より
徳冨 蘆花(とくとみ ろか、1868年12月8日(明治元年10月25日) - 1927年(昭和2年)9月18日)は、日本の小説家。 「徳冨」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などは「冨」の字を採用している。 本名は徳富健次郎(とくとみ けんじろう)。 号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。 然もその見所なきを余は却って愛するなり」からきている。 [生涯] 横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。 熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒する。 後年、夫人とともに外遊の際、トルス...
「Wikipedia」より