東京生まれ。教育家。思想家。父は佐倉藩士。嘉永3年(1850)家督を継ぐ。少年期より儒学・砲術を学び、後に蘭学・英学も学ぶ。明治6年(1873)文部省に出仕、編書課長として教科書や辞書の編纂を計画。明六社創設にも中心的役割を果たす。政府の欧化傾向に対し国民道徳の回復を訴え、9年(1876)東京修身学社を設立(のちに日本講道会、日本弘道会と改称)。10年(1877)文部大書記官、19年(1896)宮中顧問官。『日本道徳論』などを発表、日本弘道会長として儒教中心・皇室尊重の国民道徳の普及に努めた。23年(1890)貴族院議員。
「近代日本人の肖像」より
西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11年3月13日) - 1902年(明治35年)8月18日)は日本の啓蒙思想家、文部官僚。 東京学士会院会員、文学博士。 [略歴] 佐倉藩の支藩であった佐野藩堀田家に仕える西村芳郁の子として、江戸の佐野藩邸に生まれる。 通称は平八郎、名は芳在、後に茂樹と改めた。 号は泊翁。 十歳で佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学んだ。 1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊の来航に衝撃を受け佐倉藩主の堀田正睦に意見書を提出し、老中の阿部正弘にも海防策を献じた。 堀田正睦へは、積極的に海外へ...
「Wikipedia」より