愛知生まれ。実業家、政治家。明治17年(1884)慶応義塾卒業。翌年アメリカに留学し20年(1887)帰国、銀座に日本初の新聞広告取次業を創始。新聞記者等を経て、26年(1893)中上川彦次郎による三井の改革時に招かれて三井銀行に入行。翌年鐘淵紡績会社に移り、大正10年(1921)社長就任。13年(1924)から代議士としても活動した。昭和5年(1930)鐘紡社長を辞任。7年(1932)政界引退後時事新報社長となり、帝人事件で政財界の腐敗を糾弾中、狙撃され死去した。
「近代日本人の肖像」より
武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、明治・大正・昭和前期の経営者、労務管理思想家、言論人、衆議院議員(3期)。 『博聞雑誌』を創刊した後、三井財閥に聘され、日本の紡績王として34年間会社経営に携わり、「経営家族主義」と「温情主義」を提唱・実践して日本的経営論を考案。 水墨画や書道にも知悉し、晩年は政界に進出して、「実業同志会(後に国民同志会)」を結成。 『時事新報』の編集者として渋沢栄一の系譜に繫がる「政商」や、徳富蘇峰などの御用新聞記者を攻撃。 「政・財・官」の癒着を次々と暴き、連載『番町会を暴く』で「帝人事件」を告発...
「Wikipedia」より