青森生まれ。父は弘前藩士。東奥義塾、宮城師範学校に学ぶ。明治9年(1876)上京して司法省法学校本科へ入学するが、12年(1879)4月退学処分を受けた。16年(1883)太政官文書局に勤務し、18年(1885)内閣制創設とともに内閣官報局編輯課長となる。21年(1888)条約改正と欧化政策に反対して辞職。東京電報を発刊し、翌年日本と改題。39年(1906)病のために譲渡するまで社主・主筆を務め、国民主義を主張した
「近代日本人の肖像」より
Wikipedia「陸羯南」
「青空文庫」より
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。 日本新聞社長。 正岡子規を育てた。 幼名は巳之太郎、のち実、号が羯南。 [生涯] 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。 長男・次男の両説がある。 謙斎は微禄だった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規...
「Wikipedia」より