明治3(1870)年~昭和8(1933)年。本名は季雄。一時、漣山人《さざなみさんじん》と号した。父は貴族院議員も務める裕福な家庭に育ち、医者となることを期待されて育ったが、文学を好み、尾崎紅葉の主宰する硯友社に入った。「こがね丸」(1891)がきっかけとなり、博文館から次々にお伽噺を発表し、明治27(1894)年からは雑誌「少年世界」の主筆となり、児童向け雑誌や、「日本昔話」「日本お伽噺」「世界お伽噺」などの叢書を発刊した。明治33(1900)年から2年間、ベルリン大学東洋語学校に日本語教師として赴任し、帰国後、ドイツでの見聞をもとに、「学校芝居」を提唱し、そのための脚本も書いた。「お伽のおじさん」とも呼ばれ、近代児童文学の祖となった。(hongming)Wikipedia「巌谷小波」
「青空文庫」より
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者。 本名は季雄(すえお)。 別号に漣山人(さざなみ さんじん)がある。 [経歴] 東京府東京市麹町区出身。 巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄である。 父の巌谷一六は水口藩の徴士として新政府に出仕し、書家として認められ、政府の公文書を書き下ろす書記官の仕事にあたっていた。 八重は一六の2番目の妻で、父にとって6番目、母には4番目の子が季雄である。 身ごもっていた母は、父一六に呼ばれ上京し、東京で季雄を生んだが、小波の当初本籍は滋賀県にあった。 母はそ...
「Wikipedia」より