山口生まれ。実業家、政治家。明治36年(1903)東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所の職工となり、渡米し可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設。昭和3年(1928)久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業と改称。以後多数の企業の吸収を繰り返し、日産コンツェルンを確立した。12年(1937)満州に進出し、日産本社を満州重工業開発と改称。帰国後は東条内閣顧問となる。戦後A級戦犯容疑により拘置。釈放後、28年(1953)から34年(1959)まで参議院議員となる。
「近代日本人の肖像」より
Wikipedia「鮎川義介」
「青空文庫」より
鮎川 義介(あいかわ(本名は「あゆかわ」 ) よしすけ、1880年〈明治13年〉11月6日 - 1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。 日産コンツェルン創始者。 満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。 [生涯] 明治の元勲・井上馨の姪を母とし、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。 旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。 芝浦製作所に入社。 身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。...
「Wikipedia」より