同じ自由律を代表する俳人とはいえ、放哉の作風は山頭火とは対照的。行乞の旅を続けた山頭火の「歩く俳人」に対し、寺の堂守としてその後半生を送った放哉は「座る俳人」ともいわれる。句自体のイメージも、まさしく動対静。Wikipedia「尾崎放哉」
「青空文庫」より
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、日本の俳人。 種田山頭火らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人である。 [概略] 東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業後、東洋生命保険に就職し、大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。 その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら、...
「Wikipedia」より