劇作家、小説家。本名は敬二、別号に狂綺堂。イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として、東京高輪に生まれる。幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も能くした。東京府立一中卒業後、1890(明治23)年に東京日日新聞に入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、24年間を新聞記者として過ごす。この間、1896(明治29)年には処女戯曲「紫宸殿」を発表。岡鬼太郎と合作した「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」は、1902(明治35)年に歌舞伎座で上演された。江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は劇場付きの台本作家によって書かれてきたが、明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に新作をあおいだ〈新歌舞伎〉が台頭する。二世市川左団次に書いた「維新前後」(1908年)、「修禅寺物語」(1911年)の成功によって、綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となった。1913(大正2)年以降は作家活動に専念し、生涯に196篇の戯曲を残す。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を原著でまとめて読んだのをきっかけに、江戸を舞台とした探偵小説の構想を得、1916(大正5)年からは「半七捕物帳」を書き始めた。Wikipedia「岡本綺堂」
「青空文庫」より
岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年(昭和14年)3月1日) は、小説家、劇作家。 本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。 別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。 著名な作品は、新歌舞伎の作者及び「半七捕物帳」などがある。 [経歴] 元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓)の長男として東京高輪に生まれる。 1873年、公使館の麹町移転とともに麹町元園町に移って育つ。 3歳にして父から素読、9歳から漢詩を学び、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。 平河小学校中等科第三級編入後、東京府尋常...
「Wikipedia」より