中島 竦(なかじま・しょう、1861年-1940年6月11日)は、明治から昭和にかけての漢学者。 竦は「たかし」とも読む。 幼名は辣之助、字は翹之。 号は玉振(道人)または蠔山(介夫)。 兄に中島綽軒(靖)・中島斗南(端)、弟に関翊・山本開蔵・中島田人(作家・中島敦の父)・中島比多吉がいる。 [生涯] 漢学者であった中島撫山の三男として、武蔵国埼玉郡久喜本町に生まれる。 父について皇漢学を修め、兄の斗南とともに父の私塾・幸魂教舎で弟子たちに教える。 1885年に幸魂学舎を私立専門学校として改めて設置した言揚学舎の名義人・教員となり、1887年には尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状...
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