教養としての「死」を考える

鷲田清一 著

ひとはいつ生まれ、いつ死ぬのか?問われるべきはこれだ。親が自分の子だと意識したときに生まれ、その人を知っている人がいなくなったとき死ぬのだ、となぜ単純に考えられないのか。ヒューマニズムを擬装する近代科学、そして「生命科学」や「生命倫理」-。その法学的でミクロな視線に偏った「死」をめぐる論議のなかで、私たちは、大切な「他者」を見失っている!「死」もまた巧みに隠され続ける現代にあって、「生」と「死」のあわいで、「死」もまたコミュニケーションであることを主張し、人間存在の意味を問い続ける哲学者・鷲田清一の達成点を見よ。

「BOOKデータベース」より

[目次]

  • 第1章 死が、社会のものではなくなった
  • 第2章 死のおぞましさと現代の社会
  • 第3章 死と「私」の哲学
  • 第4章 死の実相を探る
  • 第5章 人称態という死の区分けは正しいか
  • 終章 死は依然として隠されている

「BOOKデータベース」より

この本の情報

書名 教養としての「死」を考える
著作者等 鷲田 清一
書名ヨミ キョウヨウ ト シテノ シ オ カンガエル
書名別名 Kyoyo to shiteno shi o kangaeru
シリーズ名 新書y
出版元 洋泉社
刊行年月 2004.4
ページ数 222p
大きさ 18cm
ISBN 4896918088
NCID BA66680566
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全国書誌番号
20585456
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言語 日本語
出版国 日本
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